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治験マスターへの道

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製薬会社

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製薬会社

(1)医療費を押し上げているもの?! 医療情報提供者、医療業界では、「プロパ一さん、通称MD」と呼んでいる。この存在は、医療業界にとって、避けては通れない問題だと思っている。  かって、大学病院で仕事をしていた時、○オ○○製薬の人が、(月曜から金曜まで)朝から、病院の小児科の医局の前にいた。朝、彼らは、医局員よりも早く来て、若いドクターに薬を売り込んでいた。医局には、いろんな製薬会社からもらったものがあちこちあり、監査の時に、それを別の部屋に運んだのを記憶している。便利屋さんって感じになっているのではと思える感じのケースもあり、スライドの作成から、個人的な買い物まで、いろいろ向こうの方から言ってくる感じになっていた(今は、厳しくなっているので、そんなことはないはず)。  プロパーさんの給料、若い研修医よりも、殆どの人が高い。売り上げに応じて、ボーナスが決まる様で、会社によって当然違ってくるが、研修医の倍近くになる人も多い。佐伯の病院で勤務していた時には、私がそこの会社の薬を沢山使ったので、ハワイ旅行に行ったプロパーさんがいて、厚く礼を言われたこともあった。  治験を書くことをしばしば言われ、一例の症例を書けば、5000円~1万円(10例集めて書く)もらえるケースが多かった。月に10万(今、スーパーローテートしている研修医は、月に30万)しかもらえない研修医にとっては、ちょっと書くだけで、(1枚だけ書くことはまずないので)10万前後のお金が入る。そのお金は、個人的に自分のものしている人や、学会費に使ったりとか、医局に入れたりとか、何人かで分けたりと、いろいろ。公の機関でなければ、税務署に申告しさえすれば、法律上は、問題はないはず。こんなことを続けていると、若くして、MDのマインドコントロールに陥ってしまって、金銭感覚がおかしくなってしまうのでは?!  ある製薬会社の人の裏話だと、・・・ドクターがまだ若い時に、自分の会社を売り込んで、あの会社の製品はいいと思い込ませれば、その時、かなりの投資をしても、後で、充分ペイすると。医学部を卒業する時でさえ、いろんな製薬会社のモノをただでもらっていた。  私が卒業当時、日本では、プロパーさんは、ドクター5人に1人いると聞いていた。欧米では、20人に1人で、それも、ドクターがなっていると聞く。  ある製薬会社の幹部の人が言っていた、・・・売り上げの一番いいのは、私立の文系出身の人、次が私立の理系出身の人、次が、国公立出身の文系の人、一番成績の悪いのが、国公立出身の文系の人とのこと。つまり、そこでは、そのプロパーさんの知識の優秀さより、売り込む薬の良し悪しより、売り込み上手かどうか、医者から気にいられるかどうかが、問題になっている。そのことは、今も、大同小異ではないだろうか。  私も、プロパーさんのお世話になっている。大半は、使っている薬のことや使いたい薬のことを聞くことが多いのだが、使っているその会社の薬のことを尋ねても、会社からの返答は、余り役に立つ感じでないことも多い。暇な時は、世間話もしてはいるが(治験データは、今は、全く書いていない)。  最も今、不合理に思っていること。それは、同じ成分なのに、患者さんが払う値段も、病院の純粋なもうけも、薬によって、倍ほどの差があるケースが多いということ。倍どころか、数倍になるのもある。その内、それも、是正されるそうではあるが。  漢方では、同じ成分でも、その産地により、効き目が違うらしい(例えば、日本で使用されている人参は、日本の一流メーカー製薬会社だと、中国からいいものが入っているそうで、中国本土では、少し質の落ちる人参になっているとのことらしく、日本の医者が漢方薬を上手に使わないと、中国の漢方医は、泣くに泣けないとのこと。 (2)家庭教師  ある奥さんから、「田原先生は、命の恩人です。あの時、田原先生に会っていなかったら、今の自分はないと、主人が言うんですヨ」、と言われた。その奥さんの横に、何か、過去に見た感じの大人の人が立っていた。こんな大きな人、救急で、助けたことがあるはずないし、この人の子どもかなと思って、なかなか思い付かなくて、いろいろ考えていたが、その奥さんの御主人が、小学校の先生になっていると言われて、思い出した。  その人から、「高校1年になった時に、先生から、勉強の仕方を教わり、その時、自分の好きな卓球をしてもいいかと尋ねたら、先生から、いいと言われ、ビックリした」と言われた。  私の場合、大学に入った時、家庭教師をよく頼まれた。私は、常に、無料、そして、その方針は、家庭教師に付かないで、受験勉強をする方法であった。  大学の教養部の時、クラスの女性から、「家庭教師を頼まれているけど、他もあるから、田原さん、代わりに行って」と言われた。で、代わりに、私は行った。  その方針は、 1)・・・無料。 2)・・・家庭教師に頼ることは間違っているから、私は、勉強の仕方だけ教える。 3)・・・勉強なんて、時間に正比例するもんではないので、よく遊び、集中的に勉強しなさい。 4)・・・予習を徹底的にして(例えば、古典だったら、全訳をする、作文であれば、本番と思って、ちゃんと書いて行くなど)、勉強時間の中では、学校の授業時間が一番多いので、それを一番大切にしなさい。 5)・・・受験直前まで、特に、理科と社会は、コツコツとマイペ-スで、自分なりに、まとめて行きなさい(楽しいですヨ)。 6)・・・(試験は、朝あるのだから)朝型にしなさい。 7)・・・規則正しい生活をしなさい。 8)・・・中間試験・期末試験で、しっかり押さえて行きなさい(それをしっかりしてないから、不安になって、過酷な受験勉強となる。いくらしても、切りがない。すればするほど、知らないことが出て来て、不安になる。完全に覚えて行くことは、初めから不可能。受験直前に、新しいことを覚えようとすることは、辞めなさい。数日間に新しいことを覚えるよりも、長い間掛かって今まで覚えたことのまとめを見ることの方が、大切)。 9)・・・受験の時は、自分なりにまとめた1冊のノ-ト(かなり厚くてもいいが)だけ、持って行きなさい。 10)・・・自分との闘いと思いなさい。 11)・・・睡眠時間は、常に、充分に取りなさい(4当5落など、全く、ナンセンス)。 12)、試験時は、模試と思って受けなさい。出来る問題は、落とすまい落とすまいと思って受けなさい。 ・・・など  学生時代、その子どもの自立を考えて、家庭教師は、一切しなかったが、家庭教師を頼まれれば、しばしば、自分で体得した受験勉強の仕方を喜んで教えていた。多くの親から、お金を取らないので、不思議な人って感じに受け取られていたが・・・。 追加:自分の場合は、現役の時、わずか0.5点足りずに、一期校の地方の国立大学医学部に落ち、2浪もしてしまった。しかし、受験の仕方は、それなりに、会得した。熊本での医師国家試験の時は、ノート1冊だけ持って行き、20時過ぎには、寝ていた(一緒に行った友達は、深夜遅くまで勉強していたが)。 (3)独り言  ある医師と話した(かなり前になるが)。彼は、私が大学(文部教官助手)の時に、医学生として、ポリクリで回って来て、○医大小児科に入局し、その後も、私が大学を去って西田病院勤務している時も、土曜の午後から日曜にかけて、時々手伝いに来てくれていた。   彼は、言う、「すぐにでも、海外のNGOにでも参加したい気持ちで一杯。先生の書かれた本を、何度も読んだ。先生から、たはら小児医院閉院式の時のお茶会に誘われた時、行きたかった。大学は、封建的。自分の子どもには、医者以外なら何でもいいと言っている。自分は大学を辞めたいが、若い彼らが、臨床がまだ一人前でないんで、辞められない。大学卒のナ一スが多くなったが、前のナ一スの方が良かった。知識だけでは、仕事は出来ない。いて欲しい人材程、大学からいなくなる。医者の息子がどうしても医者にならないといけないなんて、どう考えてもおかしい・・・」、と。   私の場合、一番初めに大学の医局を出た。今考えれば、正解だったかなと思っている。私の父は、役に立つ人間になれと言っていた。決して、何々になれとは言わなかった。「努力した分だけ人の役に立てる。若い時の苦労は、買ってでもせよ」と言っていた(自分の息子にも、同じ言い方をしてきている)。   若い時に、西田病院で、一人で自分なりに思い切り仕事が出来て、満足している。   西田病院の初代院長産婦人科医西田茂氏は、私の父に、次の様に言った、「子どもさんを医者にして、後悔していませんか。医者は、朝も昼も夜もなく、患者さんから仕事をさせられる。普通の仕事と違って、間違いが出来ないし、又、責任も重たい。他人が思っている程、いい職業ではない・・・」と。私の父は、「いや、全く後悔していません。子どもが好きで選んだ道ですから」と言った(亡くなった父から聞いた話)。   自分の場合、いいスタッフに囲まれて、開業の経験も出来て、本当に満足している。しかし、今の時代は、患者の権利意識が強くなり、医療スタッフの患者の為にと言う博愛精神が乏しく、又、きめ細かい経営を考えずして医療は出来ない状態になっている。   自分には、博士号もないし、認定医もない。博士号を取らないかとのある大学大学教授からの誘いはあったが、断ってしまった。博士号を取ったからといって、臨床の腕が上がるかと言えば、殆ど関係のないこと。又、小児科認定医も、取った後に、ずっとあのまま学会に行って更新していれば、そのまま保持出来ていた。しかし、ゴルフとかバス旅行が付いている学会に出席しても、ちゃんと点数になって行く制度も、何かおかしな気がしている。   語学の検定試験なんて、1級なんて、1%前後でしか合格しない年だってある。読む、書く、聞く、話すの知識が求められるし、極めて、客観的。それに引き換え、医師の博士号は、他の学部と比べて、極めて簡単に取得できるケースが多いし、その博士号にしても、ある小さな集団が認めているだけ。認定医にしても、一度取れば、後は出席点数だけでいいと言うのも、おかしい。   実際は、何の為に学位を取り、何の為に認定医をとっているかだ。全ては、それが患者さんの為であるべきだ。学位があれば、大きな公的病院の部長になれる、給料が上がるというのでは、余りにも患者さんがかわいそうだ。今の時代、昔と違って、勉強しようと思えば、学会に行かなくても、いい雑誌は一杯あるし、インタ一ネットを利用すれば、質問にも、ちゃんと答えてくれる。   昔の自分の医療を振り返って見ると、それなりに一生懸命にしていたのだが、今考えると、間違った医療も沢山してきている。   今も昔も変わらないことは、やはり、医者は患者の為に存在すると言うことだ。医療従事者ばかりを責めても、解決出来ない。行政がまず気が付き(何時まで経っても、変えられないのが、日本の行政)、国民全体が、もっと賢くなるべきだと思う。   患者さんが不安で部屋に入って来た場合、医師は、まず、挨拶をし、笑顔で迎えるべきだと思う。根気強く訴えを聴いて、丁寧に問診をし、脈も診て、丁寧に診察し、患者に分かり易い言葉でゆっくりと病状を説明し、薬の説明をし、生活態度を指導して帰す。親を安心させて、笑顔で帰せれば、その患者さんにとっては、その医師が、一番の名医であろう。   現実は、親が付いてなく、祖母が連れて来る。若い親だと、診察中に、携帯電話が鳴る。指示した薬をちゃんと飲まなく、時間外に来る。自分の医者の掛かり方は、棚に上げておいて、今まで掛かっていたお医者さんの悪口を言う。根は、深い。   今は、日本の子どもの病気は、軽症化している。初めのじゃないが、私が独身で若かったら、海外で医療活動をしていると思う。 (4)クベース 新しいクベースが、新生児室に購入された。V-2100Gで、最新の型で、その説明にATOMの業者が来た。何でも、医療機器の多くは、わずか、6年が耐用年数。で、私が昔、佐伯で使用していたクベースは、確か、V-80だったと思う。その時は、体温調節を器械がしてくれ、レントゲンも、ベビーを動かさなくても撮れると言った感じの最新型で、感激していたが、それから、安全性の面から、酸素分圧が測れるとか、かなり改善されている。1980年に発売されたV-80から2004年に発売されたこのV-2100Gまでに、4つのタイプが発売されているらしい。○崎県立○崎病院には、昭和51年6月~昭和52年9月までいたが、当時、呼吸窮迫症候群に、全国で、CPAPが使用され始めていた頃で、それを試みたが、殆ど上手く行かなかった。新設大学に行って、約1年間、(一人で)新生児を受け持ち、CPAPを使用した所、何とか上手く行った。昭和55年の3月末に、郷里に帰り、自分の案で、無茶なことに、「新生児・未熟児センター」なる設備を創設してもらい(それまでは、ベビールームと言う一室があったが)、小児科医一人で、8年半、頑張るった。まだ、県下では、どこも、新生児・未熟児に積極的でなく、○久見市や○杵市の産婦人科からも、紹介が来て、深夜、救急車に乗って、自分の所に搬送して、治療した。新生児メレナが、年に数例あったり、大泉門が膨隆して、脳外科的手術になったり(術前術後の管理も、10例近く、した)、母乳による頭蓋内出血があったりして、CTを撮ると、硬膜下水腫の子が結構多かった。意を決して、昭和56年から、全員に、生直後から、ビタミンKを内服で与えることにした。その効果は、明白だった。心室中隔欠損が、100人に少なくとも一人はいて、半分以上で、閉鎖することを確認した。大血管転位も、3例あり、大学に送って、その内の2例は、直ぐにBAS(人工的に、心房中隔欠損を作る)をしてもらった。横隔膜ヘルニアは、3例あり、生まれて直ぐに県病に送って、助けることが出来たが、それ以外に、も一人、他医院で亡くなって来院した横隔膜ヘルニアがあった(死後に写真を撮る許可を得て、撮ると、右の横隔膜ヘルニアであったので、親には、それなりに納得してもらった)。初めのまる3年間は、全く援助無く、24時間365日、不眠不休で頑張った。訴訟も、2例あり、体力的にも、精神的にも、限界で、いつ倒れてもいい状態にあった。今考えると、どうしてそんなに頑張れたのかなあと思う。 (5)末っ子  頭のいい子にしようと思えば、母親が27歳で、5月生まれがいい、何て、ある人が言っていたが、そんなことよりも、兄弟学の方が、確率的には、当たっていると思っている。子どもにとっては、兄弟は、多ければ多い程、いいと思っている。自分の小さい頃を考えても、2人の兄は、自分の先生であった。又、姉がいたので、それも助かった。兄の様に勉強が出来て、兄の様にいろんな事が出来る人間になりたい、少なくとも、潜在的にそれをずっと思って来た感じで、今も、少なからず、そう思っている感じである。  下の子は、上の子の成功も失敗も見ている。全ての面で。経験をしてなくても、それを見聞きして、勉強出来ている。沢山の兄弟がいればいる程、それなりに、沢山のことを学ぶことが出来る。  末っ子は、親にとっては、一番最後の子で、この世では、親との接触時間が一番少ないとのことで(?)、甘やかされて育てられる傾向にある。しかし、家の兄弟の中では、いつも、負けの存在であり、自分にしても、毎日、兄弟喧嘩で泣いていた。負けることに慣れ、負けても、さほどストレスを感じなくなり、負けるのが普通になって、勝てば儲けものって感じになってしまった。  いつも負けていると、人の顔色を伺うのが、上手になっている。末っ子は、上の子の子から、気に入ったことをすれば可愛がられ、気に入らないことをすれば、泣かされてしまう。その繰り返して、自然と、人から気に入られるには、どうすればいいのか、どうしたら、人から嫌われるのかが、体ごと、自然に学習されている。    統計では、末っ子の割合、(かなり前のデータと思われるが)27%しかないのに、競争が伴ったもの、例えば、オリンピック競技などでは、そのメダリストの選手の半分が、末っ子で占められている。横綱貴ノ花関にしても、マラソンの瀬古利彦選手にしても、末っ子である。  末っ子と相性がいいのは、第1子と言われている。面倒見はいいが、粘りに欠ける第1子と、人の面倒見が悪く、まとめる能力に欠けるが、頑張屋の末っ子で、よく馬が合うのであろう。  その末っ子も、2人では、末っ子の意味は薄く、特に、男女、女男では、末っ子の意味はない。末っ子の特性がよく出るのは、3人以上の兄弟の場合である。ある見方をすれば、今の日本の子ども達は、一人っ子の大集団?!。子どもの為にも、将来の日本の為にも、出来れば、子どもは、3人以上がいいのでは。   私の場合ですか、・・・4人兄弟の末っ子で、両親は、中間子同士の恋愛結婚(中間子は、中間子同士が一番相性が合う?)で、母が27歳の時の子で、5月生まれで、家内は、第1子ですけど・・・。
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